2017年2月28日火曜日

大竹与茂七(越後国新発田藩領中之島村の名主)


長岡の神社・仏閣 〖与茂七地蔵〗

宝永元年(1704)から同2年に起きた一連の農民騒動で捕らわれ、無実のまま処刑された義民大竹与茂七を祀る地蔵尊です。




 与茂七は、「今はよしあらぬ濡れぎぬ身に負えど清き心は知る人ぞ知る」と辞世の句を読んで刑場の露と消えました。今なお、その遺徳を偲ぶ人々が多くいます。近くには墓碑とともに鎮魂の碑も建てられています。




宝永元年(1704年)、刈谷田川の大洪水の時、中之島村の名主であった与茂七は村内の堤防決壊を防ぐため、緊急の措置として自分の山の木を切り出して堤防の補強を行った。そしてさらに足りない分を、藩有林を無断で伐ると極刑になることを承知の上で、藩有林と大庄屋星野儀兵衛の山の木を切って補った。村人は助かり、与茂七に感謝し喜び合った。しかし、影で農民達に人気のある与茂七に妬みを持つ大庄屋儀兵衛ら数名は、村人達を助けたことを逆恨みし、役人に密告した。数日後、役人に捕らわれ、新発田城下の白州に引き出され、藩有林を無断で伐採したことを咎められた。与茂七はあの時そうしていなければ近郷は押し流される事を告げた。藩内で裁判にまで発展し、この件に関して無罪となったが、正徳2年(1712年)、両者間に借用証文、未進年貢などをめぐって争いが起こり再び裁判となった。藩内の意見が分かれ、名主である与茂七が大庄屋である儀兵衛に従うのが政道とし、このまま与茂七の言う事を聞き入れては農民がつけあがるとし、与茂七の意見は聞き入られなかった。最後の裁判が開廷し、自分の意見を告げるがその甲斐なく、与茂七は縄で縛られ、口を無理に開けられ釘抜きで歯を抜かれた。すさまじい叫びと血が白州を赤く染めた。その時、与茂七は「役人や自分を罠に陥れた者に末代まで祟ってやる」と叫んだ。正徳3年(1713年)6月2日、与茂七と他数名は縄で縛られ裸馬に乗せられ新発田の刑場に向かった。刑場に向かう途中、なみだ橋で涙ながらに人々は与茂七を見送った。刑場に着くと、辞世の歌を残し、打ち首となり最期を遂げた。与茂七らの首は見せしめのため、中之島与板街道に晒し首にされた。


所在地長岡市中之島4114
アクセス・長岡駅大手口バス停11番線より東三条駅行・または分水駅行のバスで中之島文化センター前下車徒歩1分
・北陸道中之島・見附ICから中之島方面へ2km、約5分、中之島文化センターすぐ脇案内看板あり。
問合せ中之島支所地域振興課教育支援係 TEL0258-61-2011









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