2017年1月31日火曜日

商売繁盛の神様


長岡の神社・仏閣 〖高龍神社〗

 商売繁盛の神様として、県内からそして全国各地から参拝者が絶えない神社です。太田川の上流で三方を山に囲まれた美しい地に建ち、神秘的なムードが漂っています。
 ここに来て、まず圧倒されるのが118段の石段。この石段を必死に上ると、小じんまりとした境内が現われます。





高龍神社の歴史は大正中期からと比較的新しいけれど、信仰の歴史は古いとか。今から約600年前に、南朝の武将高野木(コウノギ)民部永張が戦いに敗れて都を落ち、会津に向かう途中で、龍神の住むという蓬平(ヨモギヒラ)に居着いたという言い伝えがあります。村人たちは何百年もの間、この高龍神社伝説を信仰してきたのだそうです。



 高龍神社と言えば有名なのが白蛇ですが、これは御神体である龍の使い。龍を祭っている奥の院と神社の中間点にある院には、実際に白蛇がいるといいます。蛇は執念深い動物と言われているから、商売もこの蛇にあやかって粘り強くやれば成功するというわけでしょうか。



所在地長岡市蓬平町1284
アクセスJR長岡駅東口から車で30分
駐車場有り
問合せ高龍神社 TEL 0258-23-2020









2017年1月30日月曜日

牧野家菩提寺・河井継之助墓所



長岡の寺社・仏閣 〖栄涼寺〗

 この栄凉寺には、長岡藩軍事総督として北越戊辰戦争の指揮をとった河井継之助をはじめ、12代藩主牧野忠訓や北越戊辰戦争後、廃墟となった長岡の復興に尽力した、三島億二郎らの墓があります。





-栄凉寺墓地内知名士の墓-

 光輝山栄凉寺は、長岡藩主牧野氏の菩提寺。
 牧野氏が三河国牛久保(愛知県豊川市)城主時代に創建。牧野氏の移封に伴って、上州大胡(群馬県大胡町)を経て、現在地に移った。境内の墓地には、長岡藩出身者の知名士の墓が多い。
 戊辰戦争時の12代藩主牧野忠訓公。13代藩主牧野忠毅公。初代長岡市長牧野忠篤子爵。長岡藩軍事総督河井継之助。復興の恩人三島億二郎。長岡藩儒伊藤東岸・東嶽両先生など。


所在地長岡市東神田3丁目5番6号
アクセスJR長岡駅大手口よりバス10分
駐車場有り
問合せ栄凉寺 TEL 0258-32-2747













2017年1月27日金曜日

長岡藩ゆかりの寺


長岡藩の門閥家老・稲垣家と山本家の菩提寺 〖長興寺〗

 長興寺には、長岡藩大隊長として活躍した山本帯刀をはじめ、長岡藩士家族の墓があります。
 その中で、稲垣平助家は長興寺を興し、長岡藩家老職でした。
 また、太平洋戦争で連合艦隊司令長官として南海の空に散った、山本五十六元帥もここに眠っています。




山本五十六の墓

  



山本家の墓、稲垣家の墓、酒井晦堂(カイドウ)の墓、堀口家の墓があります。


所在地長岡市稽古町1636番地
アクセスJR長岡駅大手口より徒歩10分
駐車場有り
問合せ長興寺 TEL 0258-36-0341









2017年1月26日木曜日

北越戊辰戦争の史跡


長岡の神社・仏閣 〖西福寺〗

慶応4年(1868)5月19日、榎峠の攻略が難しいと判断した新政府軍は、大島、槇下から信濃川を渡河し、直接長岡城を攻撃してきました。
 この時、新政府軍の侵攻を城下に知らせるため、一藩士が鐘楼にかけのぼり、この鐘を乱打したといわれています。



<史跡顕彰説明板・説明文>

 西福寺の梵鐘は、明和3年(1766)に長岡藩お抱えの鋳物師田中多左衛門尉重定が造ったものです。鎌倉時代の作風を伝え、美しい龍頭が特徴。江戸時代の長岡の鋳物業は、新町村の土屋を中心にして栄えました。
 北越戊辰戦争では、長岡藩が落城した慶応4年(1868)5月19日の早朝、西軍来襲の際この鐘が乱打されました。
 長岡の歴史にとって、近代の夜明けを告げたことから「維新の暁鐘」と呼ばれるようになりました。


所在地長岡市渡里町3丁目21番地
アクセスJR長岡駅大手口より徒歩10分
駐車場有り
問合せ西福寺 TEL 0258-33-3197










2017年1月25日水曜日

北越戊辰戦争(長岡藩本陣)


長岡の神社・仏閣 光福寺

 長岡市摂田屋にある光福寺は、

長岡藩の本陣が置かれた寺である。

5月2日、慈眼寺での会談が決裂した。継之助は再度の面会を求めて山門に立ち、同行した二見虎三郎に諸藩を通じて取り持ちを頼んだが、全て徒労に終わった。。それでも諦めきれない継之助は、虎三郎から諸藩へ依頼し、その回答を信濃川のほとりにある旅籠野七で待った。
さらに従者松蔵をつれ、深夜に新政府軍の陣地を訪れた。

 翌5月3日、本陣に戻った継之助は、前島に駐屯している川島(三島)億二郎を訪ねた。新政府の要求であった3万両と、継之助の首を新政府軍に届けるように頼んだ。人望厚く非戦派の億二郎は、継之助の要請を聞かず、生死を共にすることを誓った。

 ただちに長岡藩の諸隊長を本陣の光福寺に集め開戦を告げた。そして長岡藩は奥羽列藩同盟に入る。朝敵でない長岡藩が遂にたった知らせは、北越の地に轟いた。
昨日まで北越の地で苦戦を続けていた会津藩、桑名藩そして幕府衝鋒隊を長岡藩領に迎え入れ、幕府兵は歓喜をもって集まってきた。

 5月5日、光福寺の長岡藩兵は整列して、この友軍を迎えたのである。直ちに同盟軍は軍議を開き、藩境にある榎峠の奪取に動いた。
光福寺は凄惨な北越戦争の始まりを告げる寺である







 
 『戊辰戦争長岡藩本陣』

 幕末の風雲は、長岡藩に嵐となって襲ってきた。
慶応4年(1868)5月3日夕刻、長岡藩の諸隊長は、本陣の光福寺に集合した。軍事総督河井継之助は新政府軍に対し、開戦の決意を諸隊長に演説した。
小千谷会談の決裂ののち、「我藩の面目を保ち、藩公に殉じよう」と熱誠を弁じ、新政府軍の無法に抵抗した継之助の無念が偲ばれる。




所在地長岡市摂田屋1丁目13番35号
アクセスJR長岡駅東口よりバス20分
駐車場有り
問合せ光福寺 TEL 0258-34-2346









2017年1月24日火曜日

木喰上人作 観音像


長岡の神社・仏閣  〖宝生寺〗

 木喰上人(1718-1810)は甲斐国(現山梨県)に生まれ、22歳で出家し、45歳のとき木喰戒を受け、56歳で廻国修行の旅に出て、仏像千体彫刻を発願しました。


 宝生寺木喰仏は、文化元年(1804)夏、この地を訪れた上人が境内の銀杏の巨木を伐り倒して彫り上げました。
 像は深い笑みをたたえた微笑仏で、大衆供養を本願とし、廻国と造像に専心しながら87歳を迎えた上人晩年の秀作で、保存状態も極めて良好です。




 小国町の真福寺で仁王の巨像を彫り上げた木喰上人は、文化元年の5月下旬宝生寺を訪れ、境内の銀杏を切り倒して7月13日までの間に西国 33観音を造立しました。
 これら諸仏は、平均像高が90センチメートル近くもあり実に堂々とした像容で、澄んだ微笑みの表情もよく、木喰微笑仏中傑出した作例です。 また、保存状態も極めて良好です。
 現存する30体以上の群像は、他に小栗山観音堂の33観音・上前島金毘羅堂の秩父34所観音・南鯖石安住寺の非母33観音の3例しかなく、その意味でも貴重な存在です。




 木喰上人は文化7年(1810)93歳で生涯を閉じました。







文化財指定
<種 別> 県指定有形文化財彫刻
<指定日> 昭和42年3月25日
<所有者(管理者)> 宝生寺 長岡市白鳥町486 0258-46-4768










2017年1月23日月曜日

北越戊辰戦争の史跡


長岡の神社・仏閣 〖普済寺』

 この普済寺には、三間豊蔵や牧野金太郎など、北越戊辰戦争において、若くして散った少年隊士の在名碑があります。
 さらに石段を上ると市街地の眺望がきくところに、初代藩主牧野忠成公の墓があります。

 その他、戦死者供養塔、騎馬隊の碑などがあります。











普済寺(長岡市)概要: 普済寺の創建等は不詳ですが、背後の栖吉城を居城とした古志長尾氏の菩提寺だったと伝えられています(古志長尾氏は上杉家の一門で、上杉謙信の生母である虎御前は古志長尾氏出身とされています)。承応3年(1654)12月、長岡藩(藩庁・長岡城)の初代藩主牧野忠成が江戸で死去すると、明暦元年(1655)1月に遺言により長岡城の城下を見下ろすこの地で荼毘に付され、葬られました。享年74歳。境内背後の長い階段の最奥地には忠成の墓碑である荘厳な五輪塔が建立され左右には殉死した能勢兵右衛門(200石)、渡辺七郎左衛門(30石)のやや小さな五輪塔が並んでいます(殉死者は3人で、あと1人は池田恒興の甥で牧野家に召抱えられた池田小左衛門成興300石)。牧野忠成墓所は歴史的にも貴重な事から昭和41年(1966)に長岡市指定史跡に指定されています。普済寺は忠成の菩提寺として庇護され、本堂には忠成の木像や歴代牧野家の位牌が安置されました。又、牧野忠成墓所までの参道には慶応4年(1868)の戊辰戦争(北越戦争)で命を失った少年長岡藩士、西郷勇英人(妙見村で負傷し生家で死去:16歳)、牧野金太郎正英(片貝村で戦死:17歳)、三間豊蔵正英(新保村で負傷し会津城下にて死去:享年18歳)の墓碑が建立されています。                                                                                                    

所在地長岡市栖吉町3039番地
アクセスJR長岡駅東口よりバス20分
駐車場有り
問合せ普済寺 TEL 0258-34-7125
関連情報 牧野忠成










2017年1月6日金曜日

お山 (悠久山)


長岡の神社・仏閣 〖蒼紫神社〗

蒼柴神社の創始は、長岡藩3代藩主牧野忠辰(ただとき)公が、神道を深く信じ、没後、京都の吉田管領家から蒼柴明神の神号を贈られたことにはじまります。



 嗣子忠寿(ただかず)が忠辰公と、公の特に尊崇された事代主命(ことしろのぬしのみこと)を、城内に社を建てて祀りました。
 後に9代藩主忠精(ただきよ)が忠辰の50回忌に当り、現在の地に日光東照宮を模して権現造りの社殿を完成させこの神社を移しました。社殿は幾度かの戦火にも燃えることなく当時の姿をそのまま残しています。




・牧野家歴代の御霊廟
 長岡藩主牧野氏歴代の墓碑群で蒼柴神社脇にあり、2代藩主忠成から11代藩主忠恭までの間17基の墓碑が建っています。
 この墓碑群は、昭和58年東京三田の旧長岡藩の菩提寺であった済海寺から悠久史蹟保存会によって移されたものです。



 悠久山は俗に「お山」と呼ばれ、長岡の人々に親しまれている。9代藩主牧野忠精は、天明元年(1781)、ここに蒼柴神社を建立し、この地を悠久山と名づけました。

所在地長岡市悠久町707番地(悠久山公園内)
アクセスJR長岡駅東口からバス15分
駐車場有り
問合せ蒼柴神社 TEL 0258-33-1769






2017年1月1日日曜日

2017年 お正月


明けましておめでとうございます

本年も宜しくお願いします


今年も長岡を中心に写真ブログをお届けします。


「初日の出」の画像検索結果



「鏡餅」の画像検索結果