2015年11月18日水曜日

互尊文庫

長岡市立図書館です

長岡市の図書館創設者です。

長岡発展に尽くした方です。

(詳しくは、下記に!)

             長岡blog村



野村互尊翁の銅像




人間社会の浄化に努めた「野本恭八郎」

人間社会の浄化に努めた野本恭八郎(互尊翁)
 野本恭八郎は、嘉永5年(1852)刈羽郡横沢村の山口家に生まれます。長兄には、新潟県議会議長で北越鉄道設置運動を進めた山口権三郎がいます。明治5年(1872)、21歳の時、長岡の渡里町野本家に養子に入り、名前を山口豊吉から野本恭八郎と改めます。恭八郎は号を互尊と称し、69国立銀行取締役、県議会議員、長岡市議会議員、日本生命保険株式会社商議員、長岡電燈会社取締役等いろいろな役を務め、長岡市への図書館創設及び維持費、長岡高等工業学校設立費などの寄付、いろいろな請願書の提出など国家公共のために尽くします。
そして、昭和11年(1937)12月85歳で逝去します。

○ 「我人独尊皆互尊(われひとどくそんみなごそん)」
野本恭八郎(互尊翁)は、自説の「我人独尊皆互尊」を実践し、その思想を啓蒙して人間社会の浄化に努めた偉人です。恭八郎は、幼い頃から読書が大変好きで、読んでは考え、考えては読み、本を読むことによって自分の考えや生き方を生み出そうと努力してきました。
そして、明治33年(1900)49歳の時、互尊独尊の説を唱えます。この「我人独尊皆互尊」は、「自分も他人も、ひいてはすべてのものは、皆天から授かった尊い本性を持っていて、それぞれに尊いのである。このような一人一人の人間の尊さに気がつけば、自分自身を尊んで、決して粗末にしてはならないことがわかる。同時に他人の尊さも大事にしなければならない。
世の中は自分ひとりだけでなく大勢の人が生活をしている。だから、自分の尊さを自覚するとともに、他人を尊び敬うことが大切である。そして、自分をみがき、おおらかな気持ちで手を握りあって、生活の向上と人類の幸福につくし、理想的な世界を作り出さなければならない。」という考え方です。

○ 互尊文庫
野本恭八郎は、「我人独尊皆互尊」の考えのもと大正4年(1915)大正天皇即位記念として、また、自己を磨くには読書が最適と考え、文庫(図書館)の建設を思い立ち、自らの資金を寄付して、その文庫の運営を長岡市長にお願いします。こうして、大正7年(1918)東坂之上町(厚生会館裏)に「大正記念長岡市立互尊文庫」が完成します。文庫は、木造2階建のペソキ塗りの洋館建で、書庫は煉瓦造りの3階建で、床にはリノリウムが張られ静かな雰囲気の図書館です。
互尊文庫には多くの市民が読書や研究のために訪れます。図書は、合計3万6千冊に達し、市の人口4万人に近い蔵書数で全国でも5本の指に入る図書館といわれました。互尊文庫は年と共に利用者を増やし蔵書数を加え、昭和11年4月では全国主要市立図書館中、閲覧者率は(人口100人につき308人)第1位を占め、蔵書冊数率も第2位の盛況でした。また、図書館活動にしても館外貸し出しや読書会、児童お話会を実施し、昭和に入ると巡回家庭文庫も開始されます。
長岡空襲で互尊文庫は焼きはらわれましたが、戦後、明治公園のとなりに建てられ、昭和62年3月に長岡市立中央図書館ができるまでは長岡の中心的な図書館として多くの市民に親しまれます。現在は、中央図書館の分室として本の貸し出しや学生の学習室として利用されています。互尊文庫の玄関には、互尊文庫の言われが善かれており、前には、野本恭八郎(互尊翁)の胸像があります。

○ 日本互尊社
野本恭八郎(互尊翁)は、昭和9年(1934)「我人独尊皆互尊」の宣揚広布を目的として一切の財産を挙げて財団法人「日本互尊社」を設立します。現在は、長岡市福住1丁目(長的駅東口、ダイエーのとなり)の木立の中にあります。日本互尊社の敷地内には如是蔵博物館があり、1階には野本恭八郎の遺品や資料が納められています。2階には山本五十六の遺品や資料があり、3階には長岡出身の偉人関係の遺品や資料があります。




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